そうそう・・・昨日の夜、なに食べたっけ?やっと辿り着いた場所がこのクソブログpart6

命の続く限りアングラ(ただの自己満)で生き続ける男のちょっとエッチな独り言

多様性を容認する中に潜むリスク。顕在化してはじめてわかる人間の本質。

ネット界隈でLGBTの話に触れると、それこそ多種多様な意見があるからすぐに反論されて炎上する。まあ炎上とかいうのは、人気のある人などに嫉妬している人が引き起こすテロのようなものなので、オレには全く関係のないことだから良いとして、その人間の多様性について考えてみたんだ。

別にLGBTだけに特定することは無いと思うんだけど、マイノリティーはいつの時代も迫害を受けたり、かと思えば信じられない巨大な権力を手にしたりする。人間は協力してコミュニティーを作り上げて生きている種族であるので、異物を排除する原理原則は本能のどこかに潜んでいる。しかしながら現代の高度化した人類の文化の中では、異端者が勝者になる可能性を秘めているし、色んな意見や考え方があってしかるべきだと寛容することが常識人とされる。

全ての人間は色んなマイノリティーを抱えて生きているんじゃないかなあ。だから上記のような『寛容』が人類の大きなテーマとなる。だってそうでしょ。我々は家族という小さな単位の中で生まれて、小さな地域で育ち、小さな舞台で生活をしている。自分を含めて全てが少数派なわけです。そんな”人間”が集団を形成して生きようと努力してきた。

だからLGBTだけを取り上げて批判するのはナンセンスで、LGBTは生産性が無いじゃないかと人間の生殖や少子化問題を持ち出して攻撃するのは「いやいや、お前の考え方こそ破壊者の思考だ」と言われてしかるべきだと思う。生産性の面から言えば、現代日本国会議員が日本で一番生産性に乏しいのではないだろうか。ってオレが杉田議員を批判しても何も始まらない。彼女の発言には問題はあったとしても、それ以外の議員としての行動は意外と評価できるとオレは思ったりしている(所属をコロコロ変えるのは好きじゃないが)。

もとい今までは大きな声で反論できなかった人たちが、何か巨大な力を持って立ち上がることは危険を孕んでいる。やはりマイノリティーという事実がそこには存在していて、苦痛と同じくらいにそこには利権が発生するのよ。

 

ここまで書いていて、オレの考えも「行ったり来たりして、結論がまとまらねえ」と思っている。自分は普通だと思い込んでいる人間がレズビアンやゲイの人の気持ちを理解することは到底無理だし、逆をいえばLGBTの人たちがストレートの人や”その気が無い”人を『ノンケ』と呼んで理解してくれない人だとどこかで思っているのではないだろうか。

 

それでも我々は共存していくんですね。

とはいえ、オレの会社の界隈で毎日のように女装をした70歳近いおじいちゃんが自転車で颯爽と走っているのを見かけると正直、やめてくれねえかな・・・とおもってしまう。だってすね毛はボーボーなのにスカートだし、髭もオダギリジョー並みに生えているのに茶髪のロン毛のズラ。全てが中途半端にとっ散らかっていて理解に苦しむわけだけど、そのおじいちゃんとすれば自分の考え貫いて本気で生きているとしたら、それを否定したらオレもウンコということになる。ただ、その非日常的な光景を朝一番で通学する小学生が奇異の目で見つめる姿を目の当たりにしてしまうと、何とも言えない気持ちになる。

そんな彼らが新しい時代を作っていく世代となっていく。変な日常を繰り返すことで、特異が普通となっていくのかもしれない。