そうそう・・・昨日の夜、なに食べたっけ?やっと辿り着いた場所がこのクソブログpart6

命の続く限りアングラ(ただの自己満)で生き続ける男のちょっとエッチな独り言

大声で叫ぶよりも、目の前の大切な人に言葉少なに思いを伝えることが大事だということ

もう死んでしまった祖父が元気だった頃、『こんなものを見せてやろう』と倉庫から取り出してきた長細い鉄の塊。

 

10年以上前の話だ。それでも時代は平成。第二次世界大戦時、祖父は近衛兵で皇居警備にあたった兵隊さんだった。とはいえ終戦時に二等兵だったというから、本当に下っ端で最末端だったようです。勝手な想像だけれど、祖父は比較的恵まれた環境で第二次世界大戦に徴兵されたのかもしれない。

しかしながら戦時体験はほとんど聞いたことが無い。『歴史を後世に伝えたい』と語る戦争体験者もたくさんいるが、きっと祖父は話したくなかったのだろう。オレも詳しいことを聞くことはしなかった。

 

もとい倉庫の奥のほうから取り出してきたその鉄の塊を祖父はオレに見せて、『これが東京大空襲で使用された焼夷弾だ』と言った。にわかに信用ができないような話だが、錆びた鉄の塊を手にすることは恐怖だった。手をこまねいていると祖父は『信管は抜いてあるから大丈夫だ』とほほ笑んだ。ズシリと重い焼夷弾を手にすると、なぜだか背筋がゾッとしたのを覚えている。350mlの缶を3~4個繋げたような容姿(もう少し太かったのかもしれない)で、知らない人が見たら何なのか見当もつかないはずだ。

 

祖父がその後に焼夷弾の話を少しだけ聞かせてくれた。

焼夷弾は地面に落ちて爆発すると、油のようなものが飛び散って周囲に張り付いて全てを焼き尽くすんだ。落ちてくるときのヒューヒューという音は今も忘れられない。不発だったこの焼夷弾を拾って信管を抜いて荷物に入れて持ち帰ってきたんだ』

 

私は戦争を知らない。私のような戦争を知らない人間が、これから後世にも受け継がれ守るべき日本の姿。しかしながら歴史こそが平和への道筋を作る。

 

祖父は死んでしまった。90歳を過ぎていたから寿命を全うしたといえる。祖父が死んだあと、この話を思い出して祖父の焼夷弾を倉庫を見渡したが、もうどこを探して見つからなかった。