そうそう・・・昨日の夜、なに食べたっけ?やっと辿り着いた場所がこのクソブログpart6

命の続く限りアングラ(ただの自己満)で生き続ける男のちょっとエッチな独り言

結論を決めて話し始めていないから、いつも話がとっ散らかるわけで。

昔は顔だちの整った広末涼子のような女が好きだったけれど、今のオレは違う。手に入らないような高嶺の花がパンチラしたって、鼻で笑って氷のような微笑を浮かべるのだ。

身近な取引先の事務員にいそうな女性の雰囲気が一番の好物である。そしてその”日常”の中に渦巻く男と女の欲望を、妄想を頼りに楽しむことが生きがいとなっている。なぜかといったら、それがリアルな現実として認識しやすいから。

 

人は誰しも『自分は正常な、いわゆるスタンダードな人間だ』と思って生きている。しかしながらどこかで『非日常』を求めて続けている部分もある。

「不倫なんて汚らわしい」と世の中の奥様方は口では言いつつ、テレビドラマで上戸彩斎藤工がえげつないことをしているのを、生唾を飲み込んで見ているのだ。

誰もが非日常に憧れている。しかしながら自制して欲を抑え込んで正論を吐く。自分は良い人でいたいのか?守りたいものがあるのか?

 

歳を重ねると守らなければいけない立場や場所、そして人間関係が抱えきれないほどたくさん出てくる。盛りの付いた大学生のようなことは、オジサンは決してできないのだ(欲望に負けて社会から抹消される人もいるが)。

そんな悶々とした生活の中で活路を見出したのが『全国風俗探訪』である。手近なジモピーで簡単に済まそうとする行為は若い連中にやらせておいて、体も精神も成熟した自分が求めるベストな遊び、それそれが前述である。欲求をお金で解決することに汚らしさを感じる人もいるかもしれないが、好き好んでオッチャンと付き合うギャルがどこにいるというのか。金をチラつかせて寄ってくるような女を好きになれるはずもない。

それならば需要と供給のバランスが取れたプロと遊ぶ。こんな理想的なことはないでしょ?

 

男と女の関係でいうと、どちらかが『本気』になったら契約ごとのようにお互いの同意を確認しなければいけなくなる。男と女の友情は存在しない。それはなぜかといえば、多少なりとも好意が無ければ友人関係には発展しないし、そうなると必ずどちらかが本気になってしまうから。

自分の背負っている歴史や立場は相手にとって、ある瞬間は必要でないけれど、必ず把握しなければいけない瞬間が来る。恋愛に出自や経歴は関係ないと叫ぶのは最初だけ。いや、基本的には女性は打算的であるから、男は容姿や才能や資金力が大切となる。それは単なる欲望だといえばそれまでかもしれないけれど、脈々と受け継がれたDNAに刻み込まれた生き続けるための知恵に他ならない。

 

我々は何でこんなに複雑に生きているのだろうか。義務教育で何度も習った日本国憲法の三大原則、皆さんならば暗唱できるだろう。国民主権基本的人権の尊重・平和主義。この原則は最低でも守りながら日本の発展、もっといえば各々の子孫繁栄が続いていくことが大事である。弱肉強食の底辺に甘んじないよう、努力を重ねて生きた証を手に入れることを最重要課題とするのが正常な人間の男子の欲求ということになるわけだ。

 

もとい最初に戻ってみよう。男ならばいつでも戦い続けなければならない。そのステージは色々とあるけれど、広末涼子と付き合いたい!と言い続けることはあまりにも非現実的である。もしその可能性が少しでもあるとしたら、少なからず、何かが、もうどうにかなっているはずなのだ(広末涼子はすでに人妻で、キャンドルジュンがいる。つーか広末涼子、もう38歳だってさ)。

じゃあ僕達はどうしたらいいのか?それは最も自分が勝てる可能性の高い場所で戦い続けることが大事になってくる。

 

小学生の頃に何度も言われた。『予習復習が大事』だと。戦い続けることの重要性を懇々と語ったけれど、丸腰では戦闘力ゼロ。「君、やる気あんの?」って言われちゃう。ナイフや拳銃を持った相手に戦いを挑んでギッタギタにできるのはスティーブンセガールくらいなもんで、俺らはRPG担いで茂みからぶっ放すくらいなことをしないと強敵には勝てない。

本番一発勝負は絶対にダメだ。したらどうする。楽しみながらリハビリする場所を探し求めて辿り着いたのが吉原や金津園。そこで錆び付いたマシンガンをぶっ放せとばかりに、嬢に手解きを受けて自信を取り戻すのです。

 

どんなに正論を吐いたところで、我々は世知辛い現実を生き抜かなければならないのです。